昭和42年06月23日 朝の御理解



 無言の中に教えられるもの無言の中に訴えて来る物、私はそう言う様な人物になりたいと思う。ものを云わんでも、口数が少なくてもそれでいて清らかなもの美しいもの、激しいもの、様々なものを無言の中に与えられる様な人物、今朝から私は御神前にでらして頂きましたら、そこに掲揚台が出来ましたですね、教旗を揚げてあるです。今日はお湿りですから上っておりませんけれども。
 朝風にへんぽんとして八波の御紋章の旗が翻っておる。あれをご覧になって皆さんどういう風に感じられますか、本当に生き生きとしたいうならば金光様の御ひれい、合楽のお広前のひとつの勢いと言った様な物を、まだ他にも色々御座いましょう。何かをこう訴えて来る物が御座いますでしょう。へんぽんとしてこう八波のお旗が翻っておる、沢山お庭に献木が御座いましてから沢山の植木が植わりました。
 毎日毎日最近の様にお日照り続きで御座いますから、毎日お水を撒きます、散水致しますけれども、それでも足りん、それでも根つきが悪いというか、段々赤く渇れあがって行く木もある、中に又生き生きとして芽を吹いて行く、生き生きとして大地に根をいよいよ張って行くという植木が御座います。皆さんあれをご覧になってどういう風に感じられますか、生き生きとしてこう根を張っていきよるという証拠にですね。
 生き生きとして芽を吹いて行っておる、あの植木の勢いというものが、私共に無言の中に何かを訴えてきます。反対に赤く枯れあがって行きよる、赤くなって枯れていきよると云う事で御座います、訴えて来る物が無いでしょうが。今朝からね、その二つの事を御心眼に頂くのですよ。そして今日の御理解を頂いてお互いに、無言の中に教え無言の中に自他共に清まっていけれる。
 言わんでもなんとはなしに通うて行く、こりゃ福岡の高橋さんが頂かれている御理解の中に、金で使わず、言葉で使わず、心で使え、例えば子供を使うでもそうですけれども、高橋さんの場合は、沢山使用人の人達がおります。むごしい内から使う利口言うて使う、又お金を他所よりもきばって使う、他所が百円出しよるところは、百二十円も出して使う、それじゃいけないとこう云うのである。
 心で使え、例えばいよいよ御ひれいの立つ教会なんかでは、そうで御座いますよね、御信者の皆さんがもう一生懸命、影になり日向になり、誰も気が付かん所でも、一生懸命の御用があっておる、ああせにゃいかん、こうせにゃいかん、御用せにゃ助からんと、云わんでも一生懸命に黙って御用があっておる。是なんか、そこの先生は、私は無言で無言の中にです、心で人を使うておられるんだと思うですね、いいもんですね。
 本当に尊いもんです、心で使われると云う事、もう影も日向もないんですよ、金で使ったり、言葉で使ったり、云われた時だけ、金もろとるけん、金の手前で働きよるけれども、もう主人がおらん時にはもう影で日向の事をする、監視の目を光らかしとかんならん。それではなしにです、もう心で、心で使う、心から働く、為にはどうでもその心で使うという人のその心がです。
 今朝から私が頂きます、朝風にすがすがしゅう、八波の教旗がへんぽんとして、翻っておると言う様な内容が、なからなければならないと云う事です。お互いの心の中に、生き生きとして大地に根を下ろして、そして、生き生きとして芽をふいておる、あの植木の様な状態が、なからなければいけないと云う事なんです。心の中に、果たして自分たちの心の中に、その生き生きとしたものがあるかどうか。枯れかかっておる、いやもう赤うなって枯れてしもうとる。
 喜びなんか探しても無い、本気で元気な心で修行でもさして頂こう、という時にはです、生き生きとして自分の心の中に、喜びが湧いて来る、元気な心が湧いて来る、そういう姿に触れたらです、みんながそこから得られるもの、そこから助かっていけれるものがあると思う。お広前の金光様でも同じ事で御座いますけれども、取分け私共は、三代金光様に御縁が深いから、長い間の御本部参拝もさして頂いてから。
 もうその喜びやその楽しみと言う物は、所謂あの三代金光様の無言の中に、お取り次の御神勤を下さっておる、あのお姿に触れただけで何か( ? )とした御大祭の時なんかにはもう何万の信奉者が水を打ったように、今か今かと金光様のお出ましを待っている所に、あのお幕の陰から金光様のお姿が、ちらっと見えたらもうこちらの方がですね、もうどんなに眠かっても、ぱあっと目が覚める様な物を与えて下さったです。
 何とも言い知れぬ感激でした。結局金光様のね、ああいうお姿の中に、只今申します様なへんぽんと翻る旗の様な物が御内容にあられた。いよいよ深く広く大地に根を下ろされた様に、七十年間という間を、御神勤一筋に御修行下さった、そういう働き、そういう御内容がですあの無言の中に私共に様々なものを、お与え頂いたものだと私は思うのです。私はもの云うちゃいけんというのではないですよ。
 真に有り難いと思う、その事をです、人に伝えて行くと言う事が有り難いのです。おかげを受けた事を、実意丁寧に人に伝えて行くのが、神へのお礼と仰るので御座います、然もそれが神になるのぞ、とまで仰るので御座いますから、おかげを受けた事を伝えて行く、而も実意をもって伝えて行くと言う物でなければいけませんから。もの言うちゃならんと云う事じゃないのです、けれども、云わん、もうそれこそ鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、ものを言わん、黙っておる中にです、かえってそういう素晴らしいものを訴えていく、( ? )。
 例えば淋しいとか、悲しいとかいったものですね、どんなに苦しかっても、ジイジイいうて鳴いておる蝉よりもです、黙ってそれこそ鳴かぬ、蛍の方が身を焦がすものがあると云う事なのです。先日もある人がお届けに見えられました、ちょっとした問題があった、そしたら嫁御さんがもう今日で三日も、もの言わっしゃらん、是じゃ困りますよね。いかにそのもの言わんが良かち言うたっちゃ、もやもやしてからもの言おうごつも無か、顔見るとつぅとしてほかに部屋へ入って行きなさる。
 これ程本当いやな感じは無い、無言というても、そう言う様な無言ではいけない、丁度ここの石庭のようなもの、黙ってあの大きな石が座っておっともです、来る者をして、見る者をしてある人は素晴らしいですなと云い、なんとはなしに私共は分からんけれども、有難い感じがするですねと云う、昨日、一昨日でしたかね。久留米の市長さんが見えられましてから、一番にこの石庭を褒められました、素晴らしいですね。
 何が素晴らしいと思われたか知らんけれども、なんとはなしに、その素晴らしい雰囲気をもっている訳なんです。勿論これには天地書付けが配石して御座います。ですから有難いのでしょうけれどもね、始の間はこげな石の使い方があるじゃろか、と素人の私共が思うた。皆んなが云うたんですよ、誰でも、それで、良かですねと云いよるばってん、心ではこげなお庭造ってち云うごたる風に、あとから皆んなが云うんです。
 ところが皆んなが後で言う事にはです、この石庭は段々段々日にちが経って行くに従って良くなるというんです。是は皆んながそう云うんです私もそうでした、もちっとなんとかこう配石の仕方というか、ますこし石の使い方が外にありゃせんだろうか、と私は思うたんですけど真心をもってからこりゃ、あの御信者じゃないですけれども、小川組の大将がして下さったんです、奉仕して下さったんです、ですからどうこうと云う訳にもいきませんでしたけど。
 ところがそうじゃないですね段々、段々日にちが経って行くに従って、この石庭は無言の内に私共になにかしらん、有難いものを訴えてくれるのです。どうでもひとつ皆さんこういう内容を先ず、私共の信心の内容にして行きたいと思うのです。どうでしょう旗が立っておる、風も何も吹かんだらっとして下っとる、訴えて来る物は無いでしょうが。そこに風が吹いてその風が千切れる様に、はたはたとこう旗が閃いておる。
 そういう私は姿に触れる時に、その例えば日章旗なら日章旗、八波の御紋章なら八波の御紋章の旗が生き生きとして、私共に何か勇ましいものをです、又は有難いものを訴えて来るのです、「白地に赤く日の丸そめて、ああ勇ましい日本の旗は」と小学校の歌の文句にあります様に。日章旗が例えば勇ましいと言う様なものを、私共に与えてくれるのは、唯日章旗が与えるのじゃないです、それが風にはためいておる、そういう時に私共は勇ましいものを、その日章旗の中から感ずる事が出来るのです。
 どういう例えば私共が難儀をもっておりましても、どういう悲しいというか、どういう腹の立つ様な場合であってもです、心に生神金光大神様を唱えさして頂いて、その風をまともに受けて、金光様有難う御座います、結構な修行さして頂きまして、有難う御座いますと言う様な内容である時です、私は必ず人に勇ましい、又は美しいものを与えずにはおかんと思う、ぼうっとして腹かいとる、だがもの云うかというのと内容が違う、内容が有難う御座います。だからなのである、
   (テ―プ切れる)